走れ!ピンク・レディー〜pinklady-MagicalKiss〜

”いつでもどこでもピンク・レディー”今年はピンク・レディーの活躍と同時期に活動したアイドルもこちらに掲載していきます。

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ピンク・レディーは一時代を築いた

JUGEMテーマ:音楽

スター誕生から後楽園球場での解散コンサートまで、貴重映像多数。

ピンク・レディーヒストリー

JUGEMテーマ:音楽

ピンク・レディーヒストリー

発売直後の1位ピンク・レディー 「サウスポー」




サウスポーが発売された78年春

この曲の1位はそれまでの1位と少し違っていました。

というのも、発売された翌週で1位を獲得したというところです。



今の時代、発売直後の1位は珍しくもないでしょうが、78年当時発売されて翌週に1位を獲得するなんてことはほぼ奇跡と言えることだったのです。



前作UFOも大ヒットしましたが、発売2週目の1位でした。



それまでの曲も発売されてから、3週から4週かかって(といっても凄い話ですが)1位を獲得、それが7枚目のシングル「サウスポー」では発売された次の週(要するに発売されて最初の集計で)1位なんですから・・・こりゃあとてもとても前人未到と当時騒がれたほどでした。

それだけ、ピンク・レディーという新しいスターがしっかりと根をはった結果だったのでしょう。

80年代以降になるとアイドルブーム全盛で数多くのアイドルたちが週変わりで1位を取り合っていましたが、もっと凄いのがその1位獲得集数です。



あるアイドルが発売翌週で1位を獲得したとします。でも、次の週は別のアイドルが1位を獲得する・・・といった具合でした。

でも、ピンク・レディーの1位は一度獲得したら2ヶ月間から3ヵ月ず〜っと1位だったのですから・・・その人気ぶりといったら他のアイドルなど目じゃないという具合に独占状態でした。



この現象をみると時代が個別化していった様子が伺えます。

趣味の多様化といいますか、70年代みんなのものだったものはそれ以降それぞれの価値観のもとそれぞれがそれぞれの好みに分かれてきたように感じるのです。



だからピンク・レディー以降似たようなムーブメントはありましたが、ピンク・レディーの域に達する歌手は存在しません。

おニャン子クラブもモーニング娘もピンク・レディー的を狙ったものは確かにその一時代を築いてきましたが、やっぱりピンク・レディーの域には達していないような感じがします。



先日モー娘がピンク・レディーを抜いたと報じられましたが、売り上げに関してもピンク・レディーはわずか2年で1000万枚を超えたわけなので、短期間で凝縮した人気と長期に渡って作ってきたものとでは少し意味合いが違うかな?とも想いました。



しかし、モー娘とピンク・レディーはいずれも福田一郎さんが関係するわけでなんとなく身内的な感じがします。

HPではこちらに関連記事を掲載しています



福田一郎さんといえば、アメリカのショービジネスに精通した方で、アメリカ進出したピンク・レディーを高く評価した方です。

モーニング娘のアイディアも彼のものでした。



両者に言えることはアメリカのショービジネスのエキスを盛り込んだグループだということです。



ピンク・レディーは短命でしたがそのエキスを盛り込んだモーニング娘にはこれからも活躍して欲しいと思います。



ピンク・レディーの1位獲得について今日は書いてみました。





ピンク・レディー 「サウスポー」


Author: CarmenLady
Keywords:  Pink Lady ピンク・レディー アイドル
Added: June 26, 2007



ラスベガス公演

ここんとこ他のアイドルたちの話題が多くて本家本元ピンク・レディーから遠ざかっていたこのBlogですが、続きと参ります。

昨年、77年まで書いたので78年からスタートします。
78年初めての話題でもっとも大きかったのはラスベガス公演の発表でしたね。

詳細はこちらPINKLADYinU.S.Aに記していますのでそちらをご覧下さいね

78年2月3日東京ヒルトンホテルでの記者会見でこのことについて発表していました。
当時は子供だったので、よくは憶えていませんが、当時スーパースターだったピンク・レディーの偉業が国内に留まらず海外進出という形で現れたことは本当に素晴らしいことだと思いました。
ソロシンガーとしてのインパクトは弱くても2人がひとつになった時のインパクトの強さはそんじょそこいらの歌手なんかは寄せ付けない強さをピンク・レディーは持っていました。

コンサートは4月21日22日の両日行われたのですが、ここまでの活動は確実にピンク・レディーの地位を高める出来事でした。
世の中のすべての人間がピンク・レディーを中心に回っていたあの頃・・・
それは、歌というひとつの枠を超えた衝撃的なことだったのだと改めて想うのであります。

アメリカ!アメリカ!アメリカ!(紙ジャケット仕様)
アメリカ!アメリカ!アメリカ!(紙ジャケット仕様)
ピンク・レディー,LAオーケストラ,チャック・レイニー・リズム・セクション
1977年のピンク・レディー
1月17日  S.O.Sがヒット・チャート8位へ
      同じ日にペッパー警部は5位へ

1月24日  S.O.Sが第6位へ。ペッパー警部は4位へ

1月25日  ファースト・アルバム「ペッパー警部」発売

1月    3枚目のブロマイドが売り上げ6位に
      ビクター・レコード創立50周年パーティーで生まれて初めて餅つきをする。


2月2日〜3日 CM撮影のためグアム島へ。海外旅行ははこれが初めてでした。


2月7日   遂にS.O.Sがヒット・チャート第1位へ!

2月28日  テレビや雑誌の取材で生まれて初めてスキー場へ(長野県斑尾高原スキー       場)

2月    ブロマイド第3位へ!

3月10日  カルメン’77 発売

3月28日  いきなり「カルメン’77」がヒット・チャート第1位に。

3月31日  ファースト・リサイタル「チャレンジ・コンサート」開幕。

3月    ブロマイド第2位へ

4月13日  NHK「歌のグランドショー」のリハーサル中、ケイがケガ。
      4月21日に診察してもらい入院したため4月24日までミーがひとりで務めた。

4月16日  初の全国縦断リサイタル「チャレンジ・コンサート」の最終公演が
      静岡で行われ、故郷に錦を飾ったミーとケイ 


4月25日〜26日  2度目の海外、コカ・コーラのCM撮影のためグアム島へ。


6月5日   2枚目のLP「チャレンジ・コンサート」発売

6月10日  「渚のシンドバッド」発売

6月27日   またしても「渚のシンドバッド」がいきなり第1位に。


7月26日〜8月27日  夏の全国縦断リサイタル「サマー・ファイア77」開幕

9月5日   「ウォンテッド(指名手配)」発売

9月6日   初主演ドラマ「気になる季節」スタート

9月10日   3枚目のLP「サマー・ファイア77」発売

9月19日  「ウォンテッド(指名手配)」がヒット・チャート第1位に

10月22日〜29日  初の休暇旅行でハワイ、ロサンゼルズ、ラスベガス、サンフランシス         コへ 

11月17日   日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞


11月20日   富士急ハイランドで公演中、紙テープがケイの右目にあたり、負傷

11月22日   日本レコード大賞大衆賞受賞

11月24日   NHK紅白歌合戦に初出場が決定

11月     遂に山口百恵を抜き、ブロマイド売り上げ第1位に!

12月5日    UFO発売

12月16日   ケイ、盲腸炎で倒れる。この日から10日間ミーがひとりピンクとして奮闘

12月19日   UFO第1位へ。これで連続5曲が第1位となり新記録を樹立。

12月25日   ケイ、無事に退院。

12月27日   1年の総決算。日本武道館で「77バイバイカーニバル」開催。

12月31日   NHK紅白歌合戦に初出場
レコード大賞大衆賞


ピンク・レディーがこのレコード大賞の大衆賞がもっとも嬉しかった・・とコメントしていたことがあった。

考えてみれば、このときよりわずか1年半前にはまだデビューしていなかったのだから・・・

僕がこのVTRを改めて見たのは19歳のとき、レコード大賞の特番であった。
まだあの美空ひばりさんも健在で、ゲスト席に座っていらして、それを思うと月日が流れたなあ・・と感じる。

以前金スマのピンク・レディー特番でレコード大賞のシーンが流れ、司会の高橋圭三さんのコメントに涙していたことがあったが、この大衆賞の受賞のときも高橋さんの心優しいコメントがミーとケイの頬を濡らした。

「ふたりは歌手である前に普通の女の子です。遊びにもいきたいでしょう。デートもしたいでしょ。でも、二人は手をつないで一生懸命頑張りました。我慢をしました。その甲斐あって・・・・」

といったようなコメントであった。

そう・・・思えば、学生時代から夢を追いかけいくつもの試練を乗り越え、栄光をつかんだのだから・・・

大衆賞というのは一番みんなに支持された・・という証なのです。
自分たちの頑張りが認められ、努力が報われた・・・

当時、ウォンテッドで13週連続1位という記録がいかにピンク・レディーが他を圧倒していたか、そして一番大衆に夢を送り続けていたか・・

それが確固たる形として送られたのですから

僕が今回、この大衆賞を取り上げたのには理由があります。
ピンク・レディー次のシングルはUFOですが、このウォンテッドまでがピンク・レディーがやりたい路線の真髄だったから・・のように思うからです。
この大衆賞がひとつの転機となったのではないだろうか?と思ったからです。
この後、ピンク・レディーの快進撃は更に続きます。
日本発世界級のブランド(なつかしい〜HP最初の頃はこのフレーズをよくつかっていたものでした 笑)PINKLADY誕生まであともう少し・・・

走れ!PINKLADY!!
1976年のピンク・レディー
 2月19日 スター誕生決戦大会にて合格
      T&Cとビクターレコードにスカウトされる。
 4月12日 上京
 6月    デビュー曲「ペッパー警部」完成

まったく期待のされない新人歌手登場って感じのデビューでしたね。
ペッパー警部誕生の裏には壮絶な事実があったことご存知でしょうか?
(知ってるわな・・ファンなら  笑)

 8月11日 ピンク・レディー親衛隊誕生!
      スター誕生の新人紹介コーナーでペッパー警部初披露。
      早くも親衛隊誕生!
     ♪このわたしのしんえいたいっ! てな感じでしょうか?(笑)



 8月25日 デビュー曲「ペッパー警部」発売

 9月    まったく売れず・・・あきらめかけていたその時・・・
10月14日 新宿音楽祭で銀賞受賞。
       この辺りからジワジワッとマグマが噴火直前みたいに人気に火がついてきました。
11月    はじめてのブロマイド12位に登場。

11月11日 ABC歌謡新人グランプリでアイドル賞受賞。
11月12日 シングル第2弾「S.O.S」新曲発表会を東京・帝国ホテルにて行う
11月16日 日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞
11月19日 日本レコード大賞新人賞受賞

デビューからわずか3ヵ月足らずで各新人賞に輝くとはやっぱり幸運の女神がついてたんでしょうねえ。
 
11月25日 第2弾「S.O.S」発売

12月    2枚目のブロマイド8位へ急上昇!

12月2日  ミュージック・リサーチ ゴールデン・ディスク新人賞受賞
12月20日 ペッパー警部ヒット・チャート第7位へ



ピンク・レディーが登場した1976年、時代は確実に彼女たちを要求していた。
デビューからわずか3ヵ月でこの年の2月スター誕生に出場した時のイメージなどまったくなくなってしまったことが何よりの証拠である。

ピンク・ターフーンはこの後、更に快進撃を続ける。

走れ!ピンク・レディー


※参考資料 ケイブンシャ刊「続・ピンク・レディー大百科」より